Vol.237 【今日が最後の日のように生きる】
おはようございます!
私の住む町は、綺麗な朝日があがってきました。
これからいよいよ桜前線が北上していきます。
まだ埼玉は開花していませんが、
桜の下を歩くと
蕾が膨らんできたのがはっきり見て取れるようになりました。
先週月曜まで事務所があった上野御徒町界隈は、桜の名所です。
すぐ歩いて行ける場所で過ごしていた頃より
少し離れたほうが行きたくなるものですね。
さて、今読んでいる本に
「今日が最後の日のように生きる」という言葉がありました。
フランスにホームステイした著者のアメリカ人女性が
ホストファミリーたちの普段の生活を楽しむ姿勢
たとえば家族で一緒に食べる夕食や
日々の家事や雑事についても
愛情深く、気持ちを込めて
毎日を特別な日のように楽しんで
丁寧に暮らしていることに感激して
生き方を見直していくエッセイのような一冊です。
この「丁寧に」の逆が
「雑に」「怠惰に」です。
自分の在り方を振り返ってみて
特別な日(心を込めて行う日)と、普段の日(漫然と過ごす日)を分けてしまっていて
どちらかと言うと
特別な日のほうが少ないような感覚に陥っているとしたら
何とも勿体無い話です。
この月曜メールでも
何度も
日常の尊さについて綴っていながら
(皆さんは読んでいながら)、
食事の支度や日常の家事など
毎日行う行為については
その貴重さを感じながら行うより
何も感じずに
ただただ習慣で行っていることのほうが多いのが実情で、
もっと言えば、義務感になっていることも多々…。
何かを失ってから気づくことは多く、
日本では3.11が記憶に新しい喪失の体験でした。
あの時、当たり前のような日常に、生かされていることにあれだけ感謝したのに、
日々の雑事には文句が出て
怠け心がわいてしまう自分がいます。
一回ごとの食事にしても、誰かと過ごす時間にしても
「人生で出来る回数や時間があるとしたら
毎日一回ずつ減っているんだよ」と
家族から言われたことがあります。
(あまりに家族以外と過ごしている私への警笛でした)
いま、卒業シーズンを迎えて
今まで当たり前のように一緒に過ごしてきた友人と
滅多に会えなくなる生活に変わる人もいます。
一緒にいるときは、その貴重さに気づき難いのだけれど、
本当は、実はとても貴重なのだということを
折にふれて思い出したいと思います。
時間になればパソコンに向かい
シフトに入っている仲間と
当たり前のようにチャットで連絡を取り合い、
それが貴重な一期一会の機会だとはなかなか思い至りません。
そして何かハプニングやトラブル対応の最中には
「いつまでこんなことが続くのだろう」などと嘆きたくなることはあっても
「この貴重な課題は二度とないから
味わって取り組もう」とはなかなか思えないものなのですが
その感覚と真実は、実は真逆。
今日関わる課題、今日連絡を取り合うチームメンバーも
やがていつのまにか変遷を繰り返し
まったく違う形になっていき
同じ日は一度も来ないのです。