Vol.428 【大らかさを求めるとしたら】
おはようございます!
月曜日、上空に青空が広がっている地域もあれば
曇天や雪空のところもあるかも知れません。
11月にしては暖かい日が多く
過ごしやすいのですが、
あまりに暖冬だと
これも温暖化の加速かとやや心配になりますね。
さて週末に母校にて
先輩たちのトークイベントを観てきました。
私の出身大学は
アナウンサーが多く輩出されており、
校舎100年を記念して
徳光和夫さん、関口宏さん、みのもんたさん、古町伊知郎さんによるトークイベントが行われました。
母校での気安さからか
学生時代の暴露ネタが多く
「昔はもっとゆるかったね。今やったら大変だね」という笑い話が次々とあり、
ひとしきり笑った帰り道にふと
「今の子供たちは大丈夫かな」と気になりました。
例えば(トークイベントで話されたエピソードなのですが)
通学路の柿の木によじ登り柿を盗んだとか
もっと生々しいところでは、
就職間際に卒業が怪しくなって教授の自宅にまで頼み込みに行って
温情で単位をもらったとか
もしも今の時期で同じように
「ルール外のこと」がバレたら、
おそらく
SNS等で一斉に広がって
責任者が頭を下げる記者会見や
関係者の処罰などに発展したり、
関連の写真や動画が瞬く間に出回って
大いに注目と批判を浴びてしまうことでしょう。
せっかくの卒業も内定も水の泡になりそうです。
昔なら学生時代に
何かイタズラや
ルールを破ったことがバレた場合、
先生に呼び出されて
こっ酷く叱られて
それで終わり。
長きに渡って記録に残ることや
赤の他人に知れ渡ることはなかったものでした。
(下手すると親にもバレずに済ませてもらえました)
人知れずの善行もあるけれど、一方で
ちょっとしたイタズラや
若気の至りで
悪い事をしてしまい、
叱られたり
めちゃくちゃ後悔して
時間を巻き戻したいと切実に思うような大失態は、
誰しも経験しながら大人になるものだと勝手に思っていました。
が、
いまは
事前にさまざまな注意を受けて
極力、失敗しないようにと
常に周囲の目を意識しながら物事が進んでいるような気がします。
「何かやったらあっという間に拡散される」
「批判の的になる」
インターネットの普及で
マスメディアだけでなく
誰もが自由に発言できるようになる
と望まれて発達した技術革新ですが、
有名人に限らず誰もが
叩かれる危険とも隣り合わせとなりました。
発信ツールや手軽な手段を次々と手にしながら、
言葉を選んで慎重に発言している
ある意味不自由な時代になってしまった気がします。
大先輩の「大らかな昭和のエピソード」を聞くほどに
特に、失敗をたくさん経験して逞しくなってほしい子供たち世代が(子供に限らず若い世代も大人達もが)
置かれてしまった窮屈さを思うと
なにか、大切な経験の機会を社会全体で奪われているのではないかと
心配になりました。
こと仕事においては
製品の注意書きも然り、
事前の通知や通達が重視され、
「想定外」「曖昧さ」は混乱の原因として敬遠、極力排除されることが求められます。
一人ひとりはおそらく
窮屈さより大らかさを快適に感じる筈なのに、
予定通り、約束通りに物事が進んでいく
わかりやすさや明確さ、安心、便利さを求めていくと
不確かなものは良しとされない傾向になりがちです。
トークイベントの中でも
「いまは何か街全体もキレイになり過ぎた気がするね」
「昔の町中はもっと下水とかいろんな臭いがあった」という話が出たのですが、
安全・便利・清潔さは
手に入れた以上、
戻り難いものでもあります。
では進化した便利さはそのままに
日常に大らかさを共存させるとしたら、
何が必要なのだろうと考えたとき
これはもう全くの私見なのですが、
ちょっとした損を受容すること
目先の損得をいったん脇に置くことかな、という気がします。
自分の日常を掘ってみた時、
「許せない」という怒りの中には
「自分が損を被るのは嫌だ」という考えがありそうです。
公正さを重んじる正義感は大事ではあるのですが、
大らかな空気とは
良い意味でいい加減な感覚がもたらしてくれることがあります。
自分は自分、人は人。
長い目でみれば、行って来(プラマイゼロ)。
数値化しづらいそんな感覚が
時には事態を救うことがありそうです。
ひとつずつを厳密に測って
平等にと腐心した結果、
非効率になり
全員で損をしているケースもあります。
事務代行という仕事柄、
正確さや緻密さがとても大切な日常なのですが、
大らかさを伴うことは
より心地よい仕事空間を作り上げてくれる気がして、
一見相入れないような性質にみえる正確さと適当さを
うまく共存させることが
新しいステージにあがる鍵のように感じています。
今週も実践のチャンスに恵まれています。
笑顔溢れる一週間になりますよう。
YPP
五味渕紀子